山上憶良
優雅な世界で一人、命の震えを抱きしめた異端の歌人
まだ飛鳥時代から奈良時代へと移り変わる頃、海を渡った百済系渡来人の血を引くと言われる一人の男がいました。唐の国で最先端の儒教や仏教を学び、帰国後は次期天皇の教育係にも抜擢された知識人、山上憶良。
大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人を中心とする「筑紫歌壇」。そこは当時の高位の貴族たちが集い、花鳥風月や洗練された美意識を競い合う雅な世界でしたが、彼は間違いなくその中核メンバーの一人でした。しかし、彼が歌の題材に選ぶものは、他の貴族たちとは決定的に異なっていました。
優雅な宴の席。誰もがその空気に酔いしれる中、彼はふいに立ち上がり、一首の歌を置いて席を立ちます。
「子どもが泣いているでしょうし、母親も待っているから、私はお暇します」。 それは、漢詩の素養を踏まえた、洗練された座興の言い訳でした。周囲もそれを優雅な振る舞いとして笑顔で受け入れたでしょう。しかし、夜の闇へと一人歩みを進める彼の背中は、決して「遊び」などではありませんでした。
恋や自然の美を至高とする空間に、あえて泥臭い「家族の日常」を突きつけた彼。体制の内に生きる貴族でありながら、なぜ彼だけが、周縁の「命の震え」から目を逸らさなかったのでしょうか。
— noteの記事の導入部分より