光明皇后
純粋な祈りが「暴走する仕組み」に変わる時
奈良時代の平城京。
臣下出身として初めて皇后の座に就き、悲田院の設立や大仏造立など、仏教による国家救済を力強く推進した光明皇后。彼女は、藤原氏の権力基盤の象徴として政治の要路に立ち続けた人物です。
しかし、権力の頂点にありながら、彼女の振る舞いには、冷徹な統治者らしからぬ特異な温度が宿っていました。
聖武天皇崩御の四十九日に際して、彼女は大仏へ亡き夫の遺愛の品々を献納します。そのとき添えられた『東大寺献物帳』の願文には、国家の最高権力者である皇太后という立場にありながら、「遺品に触れるたびに悲しみが込み上げて耐えられない(触目崩摧)」という、一人の女性としての剥き出しの悲哀が刻み込まれていました。
自ら病者の垢を落としたという伝説が残るほど民衆の救済に身を投じ、同時に亡き夫への痛切な情愛を公の記録に残す。私的な悲哀と祈りをそのまま国家事業の原動力にし続けた彼女の生涯は、正倉院の奥深くに封印された涙の滲む献物帳のように、激動の歴史の地層に重く横たわっています。
— noteの記事の導入部分より