日本・飛鳥
柿本人麻呂
私的な痛みを、永遠の神話に変えた歌聖
山の陰に隠れていく妻の姿を、彼はいつまでも振り返り続けていました。
何度も袖を振るその影が木立に遮られ、完全に見えなくなるまで、足を止めて見つめていたのです。
飛鳥時代後期から奈良時代初期。正史に名も残らぬ下級の宮廷官吏でありながら、国家の根幹を築く巨大な儀式で歌を捧げた彼は、自らの人生に刻まれた幾度もの「喪失」に対して、その身を裂かれるような未練を隠そうともしませんでした。若くして死別した軽(かる)の妻、任地に残してきた石見(いわみ)の妻。彼は失われた愛しい者たちの幻影を追い求め続けました。歌聖・柿本人麻呂。
天皇の威信を讃える壮大な公の歌を詠み上げ、のちに和歌の神として祀られるほどの男が、なぜ赤の他人や自らの私的な痛みにそれほどまでに執着し、道端で血の涙を流したのでしょうか。
— noteの記事の導入部分より