召公奭(姫奭)
特権を捨て、万人の痛みをひとりで飲み込んだ「甘棠の木陰」
紀元前11世紀、古代中国。 暴政を敷いた商(殷)王朝が倒れ、周王朝という新たな国が産声を上げた時代。その建国と安定を支え、太公望や周公旦と並び「周初三公」と称された政治家がいました。姓は姫、名は奭(せき)。領地である召(しょう)の名をとって「召公」と呼ばれた人物です。
彼は武王、成王、康王の三代にわたって仕え、天才と名高い周公旦と陝(現在の河南省三門峡市付近)を境にして天下を東西に二分し、広大な西側領域の統治を任されるほどの最高権力者の一人でした。
しかし、彼が地方を巡察した際の姿は、天下の半分を統べる人間とは到底思えない、あまりにも素朴なものでした。
同時代の権力者たちが威容を誇るなか、彼は権威の象徴である立派な館への滞在をきっぱりと退けました。そして、ただ一本の甘棠(やまなし)の木陰に席を設け、そこで民衆と同じ目線に降り立ったのです。 戦乱で疲弊した人々の声を直接聞き、争いごとを治めたこの「甘棠の遺愛(かんとうのいあい)」の故事は、のちの世まで長く語り継がれました。
天下の半分をほしいままにできたはずの男はなぜ、一切の特権を捨て去り、あえて風雨に晒される木陰を選んだのでしょうか。
— noteの記事の導入部分より