太安万侶
千年の間、誰も読めなかった国家の歴史。「透明な自我」が生んだ暗号
奈良時代初期の平城京。国家の成り立ちと正統性を証明するための歴史書『古事記』を編纂した官人、太安万侶(おおのやすまろ)。
権力者が自らの正統性を誇示し、国の威信を形にしようとする強烈な政治的要請の只中にあって、彼の思考はただ「いかにして声の響きを正確に記録するか」という実務の一点へと鋭く収束していきました。
元明天皇の命を受け、稗田阿礼が暗唱する『帝紀』『旧辞』を文字として定着させる日々とその重圧。国家の正統性を証明する歴史書を編纂するという巨大な政治事業の最中、直面した「言葉の響きが消えてしまうこと」という極めて繊細な難題。安万侶はその葛藤を、序文に深く刻み込んだのです。
『古事記』の序文には、その痛切な事実が書き残されています。
「上古の言葉は意味も響きも現在とは異なり、すべてを漢字の意(訓)で記すと本来の言葉の響きが失われ、すべてを音で記すと文章が長くなりすぎる」。
神々の名や言霊が持つ力そのものが国家の正統性を担保していた時代。その目に見えない響きが、厳格な漢字の型に押し潰され、永遠に失われてしまうことを何としても防ごうとしました。
エリート官僚だった彼の内側で、一体何が起きていたのでしょうか。
— noteの記事の導入部分より