源融
都に海を敷いた左大臣、孤高の潮煙が語る正統の記憶
九世紀後半、藤原氏による摂関政治がその基盤を固めつつあった平安京。
熾烈な権力闘争が繰り広げられる都のただ中に、自らの邸宅へ「海」を招き入れた男がいました。
嵯峨天皇の御子として最も高貴な血統に生まれながらも、財政上の理由から臣籍降下を余儀なくされ、|源朝臣《みなもとのあそん》姓を賜った|源融《みなもとのとおる》です。
彼は実務の頂点である左大臣として長年にわたり国家財政を支えながら、六条河原の広大な敷地に、陸奥国の塩竈の海岸風景を精緻に模した壮大な庭園「河原院」を造り上げました。
884年、陽成天皇の譲位に伴う皇位継承を巡る局面。
次期天皇の実質的な決定権を握る太政大臣・藤原基経に対し、融は血統の近さを根拠に自らの適任性を真っ直ぐに主張しました。しかし、「一度臣籍に下った者が皇位に就いた前例はない」という基経の冷徹な一言によって、その訴えは一蹴されます。その瞬間、融は大汗をかいて沈黙し、引き下がったと伝えられます。彼はそのまま牛車を走らせ、自らの造り上げた聖域へと引きこもっていきました。
— noteの記事の導入部分より